今週、工房ではどんな事があったか。
参加者はどんなことを考えているか。
毎週火曜日、創劇の現場からお届けします!

--------------
★ 8月19日 「名作を観るおもしろさ」
--------------

今回のチューズデーレターは「名作を観るおもしろさ」について。
昨年のドラマツルグであり、今年はぶんげい演劇工房の学芸講座にて、チェーホフや古典についての講座をしていただいているお三方に寄稿をお願いしました。


「‘演劇資源’としての古典戯曲」  椋平淳

興行として古典作品を取り上げるとき、オリジナル作品を上演する場合となにが異なるかというと、おそらく、事前の公演情報に目を向ける観客層の広がりが少なからず異なってくるように思う。

事実、この京都府立文化芸術会館で開催されてきた過去2年間の「ぶんげいマスターピース工房」では、初年度がブレヒト、昨年度はチェーホフの短編が上演されたのだが、いずれの場合も、出演している俳優が普段演じている小劇場的な芝居は観ないようなオールド演劇ファン(といっては失礼か??)の方々が客席を占める割合が、通常の興行時よりも多いように思える。無論、やがて開館40年を迎えるこの会館には「友の会」という会員制度があり、ご年配の顧客にも情報が直接届いている、という影響もあるのかもしれない。けれども、一般のメディアにしても、「あの劇作家の古典戯曲が新たな解釈でよみがえる!」っといったノリで、古典の公演を報道することはめずらしくない。最近では、関西の演出家や小劇場集団が国内外の古典戯曲に取り組むことも、絶対数は少ないながら継続的に行われている。その代表格の深津篤史氏率いる桃園会やキタモトマサヤ氏主宰の遊撃体、三浦基氏の地点などの客層は、以前と比べると年齢的な厚みを増しているように感じられる。つまり、その演出家や集団の古典上演を観たことがきっかけとなって、その集団の顧客となった方々が一定数おられるということだろう。

もちろん、古典上演のメリットは、観客層の拡大以外にも多方面にあるだろう。たとえば、自作や同時代の作品を演出することが多い現代の若手演出家は、異なる時代のドラマツルギーに立ち向かうことで、自らの演出手法を進化させる契機となるだろうし、そうした演出家と舞台製作をともにする俳優・スタッフたちも同様だろう。けれども、そうした個々の表現技術の向上という視点ではなく、むしろ、演劇文化全体の振興や将来像を念頭においた場合のほうが、古典の上演機会を増やすことの意味は大きいように思う。

たとえば地点は、すでにチェーホフ四大作品のレパートリー化を宣言している。こうした特定の集団だけでなく、年間公演数のかなりの割合を古典作品に割り振るような事業戦略をもった劇場が現れてもよいはずだ。地域の税金や寄付で運営されているアメリカの地域劇場のなかには、地元住民の観劇希望に応えるために、公演数の6〜7割を古典戯曲に割いているケースもある。その真似をめざすことは日本では簡単ではないし、またその必要もないのかもしれない。けれども、古典戯曲という‘演劇資源’の活用のしかたは、事業の企画レベルでもっと追求されてしかるべきだと思う。


「名作を観るおもしろさ」  岩崎正裕

劇作を志す者は、多かれ少なかれある時期に、オリジナリティーの壁に突き当たる。そもそもが「誰それ」の模倣から出発するので、「さて、自分の独自性とは何か」などと考えこんでしまうのだ。しかし、しばらくしてこの問いはナンセンスであることに気づく。人類が言語とコミュニティを持って以来、物語りは幾万幾億と語られ、語り尽くされ、今やスタイルの差異しか存在しないのだと。

もちろんこれは才能貧しき者の開き直りでしかないけれど、オリジナリティーの追求などにこだわっていると、身動きがとれなくなるのだ。そんなわけで、私は常々、古典からは堂々と借用引用すればいいと思っている。つい先日、幕が開いた新作もチェーホフ「桜の園」のアダプトを後半に盛り込んだ。

しかし、近代劇を古典と総称していいのかどうか、研究者でない私は戸惑う。テネシー・ウィリアムズは現代劇で、チェーホフは近代古典なのか。いずれにしろ、借用引用に向かう私の視線は、その作品の(作中の人物の)同時代性に注がれる。古典を原作の言葉通りに上演するにしても(海外戯曲の場合、翻訳というファクターはあるが)、台座に据えて崇め奉るような方法では意味がない。埃が被ったベールを剥ぎ取り、骨格の浮き出る裸体を白日のもとにさらけ出す。そんな上演に巡り合いたいし、また創作したいとも思う。


「『三人姉妹』について」  永田靖

チェーホフの『三人姉妹』(1901)は、『桜の園』(1904)と並んでチェーホフの最晩年の作品です。この作品はチェーホフの技巧が内容と密接に結びついて容易に真似ることのできない作品になっています。同時代の演劇の約束事を踏襲することは意図的に回避していて実験的であり続けています。

例えば、劇全体が含んでいるエピソードの数が多く、多岐に渡っていて、互いに脈絡がないものが多いのです。冒頭は、オーリガの一年前の回想から始まりますが、回想の途中にチェブトゥイキンとトゥーゼンバフが「馬鹿げた話」をしながら登場しますが、オーリガは、誰も本気にしては聞いていないのをいいことに、自分の話を止めません。妹のマーシャが本を読みながら口笛を吹いているので、オーリガはそれを諌めるのですが、するとオーリガは急に気分が変わり、毎日の耐え切れない憂さを話し始めます。末妹のイリーナだけは明るい未来を信じていて、モスクワに行けば、自己実現のできる仕事にも、真実の愛にも、出会えると考えて屈託がありません。ですがチェブトゥイキンは抜け毛治療の新聞記事に気を取られています。

この冒頭からしてほとんど芝居にはならないエピソードで満ちていますし、一つ一つのエピソードがエピソードになる前に次のエピソードへと移り変わって行ってしまい、落ち着きません。『三人姉妹』には、およそ劇的なプロットは少なく、第3幕に火事、第4幕に決闘と別れの場面があるばかりです。サスペンスがあるわけでもなく、日常の出来事の数々が描かれていくだけです。ですが、この冒頭の日は、イリーナの20歳の名の日(言わば誕生日)のお祝いの日でもあり、これから皆が集まって食事会が始まりますが、実はこの日は三人の姉妹(と一人の男兄弟)の父親の一周忌でもあります。チェーホフが技巧的というのは、例えば、わざわざ娘の誕生日と父の命日を同じ日に設定している、そしてその日を劇の始まりに持って来ているという点にあります。考えようによっては、とてもわざとらしいのです。

チェーホフの劇では、自然な感情が流れているもの避けがたい事実なので、自然な演技が要請されるのですが、一方でとてもわざとらしい技巧が目立つ劇でもあります。チェーホフの劇を、自然さの中で上演するのがいいか、わざとらしさの中で演出するのがいいかは、時代や社会の趣味や感性、また演出家の考え方によるのでしょう。

では、なぜチェーホフは、父の命日と娘の誕生日を同じ日に設定しているのでしょうか。チェーホフの劇では、しばしば父親は不在です。不在といっても、ただ登場しないのではなく、そもそも死んでしまって存在しないことが多いです。この時代の家庭にあっては、家父長制的な因習が強く残る19世紀ヨーロッパ=ロシアの家庭で、父親の不在は決定的です。家庭の中心を不在にすることで、登場人物の状況が不安定で過渡的なものになるのでしょう。この作品ではただ父親の不在ばかりではなく、それは娘の20歳の誕生日と重ねられています。つまり、父がいなくなることと娘の大人になることが重ねられているのです。

そう考えれば、『三人姉妹』の中には、兄弟たちがしばしば父親の教育の厳しさや、父親の意向に沿って生き方を選択したことへの言及があります。兄のアンドレイなどは、父が死んでほっとしたのか太ってしまっていますし、マーシャなどは父からしつけられた外国語の教育など無駄だったと言いますし、オーリガは本当は教師になどなりたくはなかった風な言い方をします。そう考えると、この劇は、父の呪縛から逃れて、はじめて自分で生き始めた四人の兄弟たちの劇ということになります。厳しい父親から解放されて一年目から劇はスタートして、およそ2〜3年ほどの時間を劇は持っていますが、その彼らの自立する過程が描かれているわけです。

4人の兄弟たちのアイデンティティの模索を描いているとすれば、それは自分ばかりではなく、他者と出会い、他者をどう理解するかにかかっているはずです。劇では、4人の兄弟たちはそれぞれに他者と向き合って行きますが、チェーホフはこの出会いをコミュニケーションの不全として描こうとしているように見えます。つまり人と人とがどんなにか言葉をやり取りしても、一番必要で最も大切なことは容易には通じ合わせることができないことの残酷さと滑稽さを描いているように思えます。この劇の中で、唯一「愛」らしきものを通じさせることができるのは、マーシャとヴェルシーニンの不倫の関係です。彼らは愛を通じさせる時には人間の言葉を話しません。「トラムタムタム・・」という暗号めいたオノマトペで通わせあうのです。その他の人々は人間の言葉で喋り続けるのですが、決して互いに理解しあうということがありません。チェーホフはこの逆説を描いているのです。そんな中で彼らの自立はうまくゆくのでしょうか。それはもはや言う必要はないと思います。

古典を上演することの意味はいろいろあると思います。今までにない解釈を観客は求めますし、演出家や劇団の側も野心的で新しい新機軸を打ち出して行こうとします。そのことで劇の新しい見方をしたいのです。でもそれはなぜなのでしょうか。なぜ、新しい演出が必要なのでしょうか。それは思うに、新しい(そしてうまく行った)演出こそが、古いけれど、人間には本来的に付きまとういくつかの問題について、大いに感知させてくれ、自分自身のことについて深い物思いに耽らせてくれるに違いないからだろうと、私は思っています。『三人姉妹』について言うなら、彼らの自立の試みがうまく行かない有様をチェーホフは描いていますが、その原因や理由については、チェーホフは口を閉ざしています。劇を見た私たち観客だけがその理由や原因について感じたり、考えたりできるのです。一体、なぜ、4人も兄弟が一緒に暮らしていて、彼らはまっとうな大人になることができなかったのだろう。今回の上演がそんな問いへの答えについて思い巡らせてくれるものであればいいなと思います。


名作古典のおもしろさを三者三様に語っていただきました。
それぞれ大変興味深く、参考になることばかりです。
椋平淳さん、岩崎正裕さん、永田靖さん、ご寄稿本当にありがとうございました。

『三人姉妹』観劇が更に楽しくなる学芸講座は、まだまだ参加者募集中です。
永田さんの講座は3日に終了しましたが、椋平淳さん「古典戯曲彩々」は8/27に、岩崎正裕さんの「チェーホフと小劇場について」は8/24にそれぞれ行われますので、ぜひご来場お待ちしています。
詳細はコチラから。 お申込みはmp2008@bungei.jpまでどうぞ。



--------------------------------------------------------
京都府立文化芸術会館 Tel 075-222-1046
ぶんげいマスターピース工房 Vol.2『三人姉妹』
2008年8月30日(土)19:00 31日(日)14:00

□PR 観劇が更に楽しくなる「ぶんげい演劇工房」も開催中!
--------------------------------------------------------
2008.08.19. 09:43 | チューズデーレター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。